Facebook Page

Home>語り・考え(カテゴリ)  TotalPages4 next

芸術のスポーツ化

2017.05.10 Wed

「676.ルービンシュタイン国際コンクールを垣間見て」‬
http://ameblo.jp/chipmop1021/entry-12271112776.html

以上の記事を読んでの感想です。


そもそも芸術に順位を付ける行為自体ムリのある話であって、コンクールは商業的に利用される、することを目的としたものになっている。

コンクールを全て否定しようとは思わず目的を持って使えばそれが芸術を高めることに繋がる側面もあるのは否定できないけれども、とにかく世の中に名を広めるためのパフォーマンス的なものが優先されがちになるのが近頃のこの世界。

芸術家とエンターテイナーは紙一重であって、クラシックの世界でさえその傾向は確実にきていると思う。

特にクラシックの魅力とは音楽そのものの持つ純粋な芸術性と演奏家の個性とによる内面の表現によるものと思うのですが、中身の感じられない薄っぺらなしかし完璧なる演奏力で納得させるようものが評価されるようになってきているように感じるのは私だけではないと思う。

私はスポーツも大好きなので観戦したり自ら楽しんだりしますが、基本的なところで芸術とは違うと思ってます。

つきつめるとスポーツも芸術となるので根本的なところでは共通するのかもしれないですが、勝ち負けがまず評価の対象となるところが大きく異なる。

いくらよいプレイをしようが勝たなければ意味がなくなるのがスポーツの世界。勝者が全てでありそれまでの過程や手段、内容は問われないのです。

誰よりも速く走れる、ボールをネットに入れる、それで勝ち。わかりやすい世界です。

その意味では特にフィギュアスケートはスポーツのなかでもピアノに近いものがあり、明確に勝ち負けを決めるのが難しいものがあります。

しかしながらスポーツとして商業的に認知されたものとなったいま、どれだけ確実にジャンプを多く決められるかが評価の対象になるのは当然の事であり誰もが納得するわかりやすい基準が求められる世界になりました。

表現力とのバランスで見るとまずはジャンプありきで、それが同等であるような場合は表現力での差がものを言うのだと感じてます。

それがピアノのクラシックの世界でも近いものになっているのではないか。

もっと言うとそのように商業的に成功するモデルにしていきたいのではないかと言う意図を感じられずにはいられない、そうせざるを得ないヨーロッパの伝統を揺るがす切実な事情を感じるのは考え過ぎだろうか?


追記

フィギュアスケートもその昔表現力のほうが技術よりも加点有利であった時代があったと知人よりご意見いただきました。

日本人の演技がそれを変えてきた面もありますが、競争の世界である以上一般的にわかりやすい方向へ流れていった部分は否めないです。
スポンサーサイト

映画 THRIVE-スライヴの希望

2015.09.11 Fri

このブログにしっかりとした文章を書くのもご無沙汰になってしまっていますが、閉ざされたSNSとは違い広く自分の考えを発信できると言うことで使い道を新たにしたいと考えています。

訪問数があまり伸びておらず、見るかたもあまりいないのかもですが、それでも少しずつ世の中によい影響を与えられたらとの思いがあり・・

今日は9.11と言うことで例の米国でのテロなるものがあった日ですが、未だその真相はよくわからない、情報を取れば取るほど”闇”の部分があるような状態です。

現代世界の構造を説明している「THRIVE-スライヴ」と言う映画を見ればそのあたりはよく理解できるのですが、これらの事がほんとうであるならば多くの人は絶望に打ちひしがれるやもしれません。



しかし多くの暴露話とは異なり、このスライヴがよくできていると思うのは解決法まで描いている点です。

現代世界の裏話を聞くときに暗い気持ちになり打ちひしがれる怒りが残ると言う事は多々ありますが、それではなんとも無責任ではないかと思うのです。

現在の世界がおかしい、ならばどうすれば良くなるのか、そこがなければ人々は希望が見出せません。


ではこのスライヴの後半に描かれている世の中を良くする解決法で問題は解決するのかと言えば必ずしも充分とは言えないと思いますが、しかし最も大事な事はまずは人々の意識の変革であり、そのあとに世の中を良くする実際的な解決策は自ずと出てくるのだと思います。

ただ解決策を何か提示しなければ希望が見出せないと言うのはたしかで、この映画はそのあたりも考えられ実によく作り込まれていると感じます。

いろいろな方法で個々の心の変革が起きればそれが一番なのですが、話はそう簡単なものではないのも事実です。なのでそれまでの実際的なつなぎとしての方策を提案する事も世の中を良い方向へ持っていくためにまずは大事なことなのかもしれません。

その中のひとつとして最後のほうに出てくるギャングの抗争がいかにしておさまったのかと言う事例が紹介されていますが、以前にこの映画を見たときはこのシーンにあまり何も感じませんでした。
が、今は何が言いたいのかがよくわかるようになりました。

人間と言うのは対立をして人殺しをするものだ、それは人間の本能であるからしょうがないのだと言う事を否定しているくだりだと思います。

結局世界支配の陰謀と言っても人間自身の問題、欠陥があるからそれが原因ではないの?と言う性悪説に基づいた考えをそうではないと否定しているだと思います。

元々人間は愛情に溢れた存在なんだと映画のなかで繰り返し訴えるフォスターギャンブルさん。

これこそが真実であり、そういう人間を増やしていけば世界は自ずと変わるのだと言うことだと訴えています。
これは近しい人間通しの争いや国の国との紛争にも当てはまり、それを良い方向へ導こうとする力があれば話し合いで解決できるのだと言うことを示唆しています。

人間が同士が武力を振りかざすときは問題が解決できなかったときであり、その時に間に入ったものが更に火に油を注ぐのか、鎮火する方向へ向かわせるのかによって変わってくると言うことだと思います。

映画を改めて見て、最近私の思っていた疑問点を洗い流してくれました。
もちろんそれはひとつの例に過ぎませんが、非暴力の考えが根底にあり人間は本来誰も争いなど望んではいないと思います。

現在の私ではほんとうに微力ではありますが、世の中が少しでもよい方向へ向かうような活動をしていきたいと思っています。
ここ最近ずっと考えてきたことですが、もう一度映画スライヴを見直した事により考えがまとまってきました。

それをエネルギーとして精力的に活動していきたいと思ってます。

敷かれたレールの上で。

2015.09.06 Sun

道路が整備されている日本では大きな道に従っていけば迷うことなく目的地へ着ける。

レールは敷かれているから。


でも一度脇道へ逸れてしまうと立体道路になっていたり復帰するのがなかなか難しかったりする。

でもごちゃごちゃしたところを迷いこんだりしていると新しい発見があったりして大きな道では得られないものもある。

人生も同じように感じる、敷かれたレールの上に乗っていればスムーズにいろんな事が用意されているかもしれない。でも脇道へ逸れて苦労して何かを得る事は何事にも変えがたい経験だ。それが本線に戻ったときに役に立つ事が多いに違いない。

大きな流れでまとまっていくような現代ですが、その中だけにいてはつまづいたときに戻る事が容易ではない、そんな気がします。


経済においても最近はお店の閉店を見かける事が多い。コンビニや喫茶店、時代の流れの中で生存競争に敗れたものが淘汰されていく。

大手の洗練されたもので統一化されていく。多種多様なものが消えていく危うさはないだろうか。
危うさよりも現時点で感じるのは寂しさか…

天下統一を果たした徳川幕府の将軍家康公が没して400の節目の年。

引退した家康が安住の地に選んだのが静岡の駿府城。お城自体は残っていないけれど石垣や門などに囲まれた広大な城跡公園はその歴史を偲ばせてくれました。


今年は高校野球も100年の節目の年、そして戦後70年、他にもいろいろと節目の年であり何か特別な意味合いを持っているような気がします。

新しい時代が拓けるか、そんな期待もありますが、9月以降何か起きるようなそんな不安が入り混じった心境です。
個人的にもいろんな大きな事が起こっている、2015年はそんな年です。

江戸幕府は200年あまり続きましたが、ひとつの規格で統一して人を治めるのはムリがあったのか反乱分子により崩壊しました。

ユーロのギリシャの件を見てもそうですが、人間を一定の規格に当てはめて統治することは不可能だと思います。


個性や民族性をお互いに受け入れつつひとつにまとまった世界を作るには、人間それぞれに共通に持っている人間の本質に至る必要があるのではないでしょうか?

違いを否定するのでなく認めることは難しい事。違うと言うことがどんなに素晴らしい事なのかの理解なくしては受け入れられない。

違いを否定することのおもしろさがわかる。そして違っていていいんだと言う理解。


それにしても現代日本の礎を作った徳川家康は偉大だと最近つくづく実感します。

日本人による日本人のための政治が行われていた最後の時代と思われる江戸時代から時は流れ、永遠に続く平和な世界を求めたであろう家康の心を継いでいかねばならないと思う。

戦争が終わりまだ70年しか経っていない今の世の中は江戸時代の200年と比べたらまだ先は長い。

戦争を無くすには…

2015.08.08 Sat

戦後70年と言う事だけでなく、8月6日の重みを今年ほど国民が感じた年はないのではないかと感じる。

平和が当たり前でないと感じ、戦争の危機を少なからず感じ、他人事でなくなったと実感すると過去の歴史は急に重みを増してくる。

今は亡くなった祖父があの日広島にいて被爆した。軍隊で連れていた馬が盾になり助かったと聞いたけれど、火傷のアザがかすかにあったことを覚えている。帰省するといつもテレビの前で高校野球を見ていて戦争の話は一切しなかったけれど、あの日どのような光景を見てきたのだろうかと想像すると記憶の片隅に押し込んでしまいたいものだったのだろうと思う。

今年は旅行中で家族でゆっくり過ごせたので、原爆特集のテレビを見ながら馬の字を入れた息子に祖父の話をしてみた。4歳なのでわけがわからない様子だったけれどおとなしく聞いてくれた。

戦争を無くすには。
人間それぞれの成長が必要と強く思う。いかに教育するか、重要な課題だと思う。

ワーグナーの反ユダヤ主義について

2013.02.16 Sat

最近ブログを書かくに至る刺激とパワーをもらえることがあったので久々にカキコミしたいと思います。


東京の発表会でピアノから出る様々な表情の音色に刺激を受けたのですが今回演奏を聴くことができたワーグナー/リスト タンホイザー序曲S.442から生誕200年記念の音楽家ワーグナーに視点を当てて書きたいと思います。


ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner , 1813年5月22日 ライプツィヒ - 1883年2月13日 ヴェネツィア)

imagesCA3LFI0B.jpg

歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。ロマン派歌劇の頂点として「歌劇王」の別名で知られる。ほとんどの自作歌劇で台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。





”歌劇タンホイザー”のフランツ・リストによるトランスクリプションであるワーグナー/リスト タンホイザー序曲S.442がトリに演奏されました。
リストの超絶な技巧曲のひとつであるのですが、ワーグナーの美しい旋律が見事に聴き栄えする編曲がなされています。まさか発表会の生演奏で聴けるとは思わなかったので感激!でした。

と言うのも私はリヒャルト・ワーグナーが好きで、あの旋律を聴くと自分の意思とは関係なく惹きこまれてしまうからです。

このワーグナーの音楽は”ワグネリアン”と言う言葉があるくらい、熱狂的に心酔する状態にさせてしまう魔力を持っています。その旋律にひとたびつかまれると逃れられないのです。麻薬のように。
ワグネリアンwiki


そのワグネリアンの著名な人物のひとりにあのアドルフ・ヒトラーがいます。

ヒトラーはドイツ第三帝国下のナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)下にてワーグナーの音楽を多用し国民の戦意高揚に利用しました。




これはワーグナーのメロディが人間の気持ちを高ぶらせると言うのもあるのですが(日本でもサッカー国際試合のテレビBGMに使われている)、ワーグナー自身が反ユダヤ主義だったと言うことにも起因しているそうです。

このあたりはバイロイトにあるワーグナー専用の劇場である祝祭劇場が戦時中ナチスに協力していたりと政治との結びつきが強かったことをみてもナチスの考えにワーグナー一族は同意していたのだと見ることができるのです。



さてここからは私の考えと言うか、経験による知識と勘などが入った考察も述べていきたいと思います。
※注 以下の文章はユダヤ人を差別、誹謗中傷の対象にしているものではありません


ナチスのニュルンベルク党大会でワーグナーのマイスタージンガー序曲が演奏されたりと民族主義を煽るものとしてプロパガンダに利用されたワーグナーの楽曲ですが、世間一般の考え見方ではそれはイコール悪いことであるとされています。

果たしてほんとうにそうでしょうか?


まず”反ユダヤ主義”と言うものがどうして発生したのか、明確に知っている人がどれほどいるのでしょうか?

我々が歴史の教科書で習ったことは、第二次世界大戦がドイツのポーランド侵攻により勃発しナチスの反ユダヤ主義により大量殺戮が行われいわゆる1000万を虐殺したホロコーストがおこったとされています。


ここで重要なのは大量に殺されたことではなく、なぜそのように殺されてしまったのかと言うことです。

そこのところは曖昧な説明がなされていて明確ではありません。1000万が殺されたと言われているにも関わらずその原因ははっきり伝えられてないのです。

戦争は勝ったものが正義になり負けたものは悪者として伝えられます。ワーグナーやヒトラーが反ユダヤ主義に走った背景はなんなのか、本来ならばもっと深く追求する必要があるのです。

個人的な恨みつらみで1000万の人間を殺せるものでしょうか?!



教科書がそう言っているからそうなんだと決めつける、と言うより何も考えないでそれを受け入れるのは洗脳教育と呼んでもよいでしょう。

”ユダヤ人”に対しては様々な見解があるのですが、賢く能力の高い人たちであると言うイメージを個人的には持っています。音楽家にも多いですし、経済人や政治家と言った人もユダヤ人は多い。


そもそも古代からユダヤ人は宗教上の理由から迫害され、人の嫌がる仕事をしていたと言われています。そのひとつがお金の貸し借りの仕事つまりキリスト教徒がやらない利子を取り扱う職業=高利貸し(質屋)や金塊の保管人、両替商(貿易決済業)などであったと言われています。

そのあたりの歴史についてはこちらの記事がとてもわかりやすいです
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20050902/


その昔、宗教的なものの力が強かったころはお金の力は弱く商人の地位は最も低かったのですが、ユダヤ人による金融システムができあってきてからはお金が最も力を持つようになってしまいました。

迫害した結果、世界各地に散らばった金融ユダヤ人が権力を持つ世界となってしまったのです。世界の経済を操ることができるようになったため、それに反発するものが出てきた。

それがイスラム側の人間だったり、世界の仕組みを知っている知識人、文化人であったり・・


ワーグナーの宗教的なものに対する回帰やその旋律はまさに人間本来の世界への強い想いだったのではと思うのです。

我々は文明の壁を作ることにより人間本来の能力は失われ、自然との分離を余儀なくされ弱体化してしまいました。私の自然から感じる脅威や恐怖はいかにその距離が遠く感じるようになってしまっているのかを思わされます。


それを知っていたヒトラーやワーグナー一族は人間の誇りをかけて闘ったのかもしれません。




しかしヒトラーに関しては自身がユダヤ人であったとか説はあるのでそこまで断定するのは早計で、もう少し深く考察する必要があります。
参考>http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc616.html


ヒトラー自身もおそらくどこかの時点でユダヤ人資本に利用される方向になったのでしょう。彼にはワーグナーの楽曲同様に人を惹きつけてやまない危険な能力が備わっていた。

それに目を付けた世界の支配者は買収、及び恐怖でひきこんだ。もしくはもともとその血筋の人間だったのかもしれないのですが。


日本のTVに出るような政治家も最初は国を良くしよう!と志高く出てきていると思うのですが、どこかの時点で支配者側、いわゆる雇われ側からのオファーがあるんだと思います。それはその人物がなにかに秀でていればいるほど。
そしてそのオファーにはNOと言う選択肢はない。死か一生を保障されるかの選択。

音楽家やTVに出ているタレントもある意味特殊な能力を備えていて、それを雇っているものは直接的に間接的にも存在する。政治家も同様で人を惹きつけるものがあればいつからか支配者側にひきこまれる。それは世界を動かすためには必要だから。

おそらくワーグナーやその一族は利用されたとみるべきでしょう。


ワーグナーはそれらと闘い続けていたのではないだろうか?

そして音楽の力で人々を魅了し続けた。


特殊な能力を持つものが君臨していた世界からいつしかそれをお金で操る人間が頂点に立つ世界へと変わってしまった。それは時代の流れで必然だったとも言える。しかしあまりにそれが偏りすぎた。


戦争まで引き起こされ事実とは違う認識が常識となっていたとしたら?


このような考えには拒否反応を起こす人がほとんどだろう。自分たちの信じてきたことが崩れたら何を信じ生きていいのかわからなくなる。


ヒトラーは大戦後も生きていて、ホロコーストもなかったと言うのが事実だったとしたらどうだろうか。
ヒトラーの正体


我々は疑問を持たずに生きていていいのだろうか?


国が変われば歴史認識も変わる。どれが真実か、それは問題ではないのかもしれない。


我が家の小さな子どもは自分のおもちゃを取られそうになったら相手を攻撃する。

その行為については、言葉が話せないから話合いなどできない結果そうなってしまう。


それは動物の世界と同様、力がものを言う世界だ。自国を武装し攻撃に備え時にはやり返す。

しかし言葉が話せ、考えることができる人間ならばお互いが理解できるよう話ができる。


話合いをしてもお互いの主張を譲らずと言う段階があるとするならそれは大人が超えるべき壁。

適切な教育によりそれは実現できる。(その次世代の教育はできあがっているのでここへすぐ向かえる人は向かうべき)


しかし今私たちが対処的に行うことがあるとするなら、人類がここまで至った歴史を様々な角度から知ることであり地球的なものの見かたで原因を考察することだ。



私たちが互いを憎み合いいがみ合うような教育を気づかぬうちにされていたらどうだろうか。

ヒトラーやその背後にいるものにより戦争へと仕向けられていたとしたらどうだろうか。

第二次大戦下の日本も同様のことが言える。そして現在も。


ユダヤ金融資本が作ったこの金融システムは時に行き詰まりバランスが悪くなる。リセットしなければうまくまわらないものである。

リセットと言う”戦争”を繰り返すことにより、お金は再びまわりほんの一握りの人間は潤い、世界を動かしてきた。

人間の動物的な特性をうまく利用し、仕掛けを作り・・


誤解があるといけないので述べておくと、多くのユダヤ人は何も知らない善良な民。それら善良な民は同じ民族の
ほんの一握りの人間にこれも利用されてきた。


このような考察からたびたび問題となるワーグナーの反ユダヤ主義とはかのようなことであったと私の中では結論付けたのです。


ワーグナーの湧き出るような人間賛歌の音楽は人間の解放を訴えかけているように聴こえるのは私だけだろうか?

音楽は誰にも縛ることのできない心の叫びである。人間が目覚めるきっかけをもたらす絶大なパワーを秘めている。