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洗髪中の妄想

2020.03.15 Sun

髪の毛切りに行ってシャンプーしてもらう時

かゆいところないですか?と聞かれるのは何十年経っても変わらないお約束のフレーズ。

一度もかゆいところあると言った事ないけれど、もし指摘したら掻いてくれるのだろうか。

今日は耳の後ろがムショーに痒かったんだけど言い出せず、洗髪中も手がそこの箇所に触れる事はなくひたすら耐えた。

まぁ往々にして世の中他人は思い通りには動いてくれないものだ。

よく思った事は現実になるとか、自己啓発系では言われる事があるけれど、あれは当たっているけど当たっていない。
それは何故かと言うのがさすがにこれだけ生きてくると朧げながらわかってくる。

それは他人と言う概念を無視しているからだ。

世界に自分だけならなんでも即思ったとおりになるに違いない。
しかしこの世界にはたくさんの人や生き物がいる。特に人はそれぞれ意志があるのでそれを他人が思い通りにする事は洗脳や催眠術でしない限りできない。

では自分の想いを形にする最短の方法はなにか?
をそこから考えると、多くの人の賛同を得られ望む想いが多ければ多いほど実現しやすいと言える。

ようは独善的で独りよがりの想いでは実現が難しいと言うこと。
例えそれが自分では最高に良いと思われることであっても、他人からみて良いと思われなければ冷めた反応となり賛同は得られない。
内容がよくてもその人の人間性で判断される場合もあるし、結局理想とするものは人によって微妙に違うものだ。

そこで頭のよいと言うかずる賢い人は考えた。

強制的に多くの人の脳に刻んでしまえばそれが実現化していくはずだと。

テレビや新聞と言った多くの人の目に触れるメディアはまさにそれにうってつけだった。企業もCMさえ流していれば強制的に良いものだと言う賛同が得られると言う現実化への強力なプロセスを手に入れる事に成功した。

それは人がどのようにして存在しているのか解っているであろう異星人が知恵を授けたがごとく地球の人間と言う生物にとって破壊的な威力を発揮した。

人間は繰り返し見たものを正しいと信じる。その特性を活かして現実化させてきた人たちは地球上ではかなり少ない人たちだけだろう。

しかし近年、それがどうもうまくいかなくなっているようだ。インターネットの登場によってメディアが多様化、情報に溢れる世の中になってしまった。こうなるとこれまでの限られた情報での現実化プロセスが難しい。

ならばとネットでの情報統制に躍起になるもどうにも怪しい事になってしまう。

世の中ウイルス一色にしたはずがパニックどころかなんだかシラけてと言うか疲れてもうお腹いっぱいみたいな。相変わらず騒いでるのはTV、みたいな完全シラけムードがみな口には出さないけれど漂っている。

さてそんな強制プログラムがうまく機能しなくなったなか、どうすれば自己実現への近道なのか。

それはシンプルに、自分が実現したいと言う事よりも多くの人が実現したいと思う、単純に言うと人のためになる事をすれば賛同者が増える、イコール想いが叶う。

それが自分の叶えたい事とイコールの時は実現が早い。多く人の想いとイコールではない事は世の中に求められていない独善的なものなので考え直すか、ひたすら叶うまで、死ぬまで叶わないようなまさに夢への投資を時間をかけてやる必要があるかもしれない。

お金持ちになるのに他人のために動けば自然とそうなっていくと言う。

それは結果的に自己実現ができると言う例で、しかしそれはエゴが強いうちは難しい。
だから自分の自己実現のために他人のために尽くすと言う想いではどこかでボロが出るしそれは結局エゴの塊なのでどこかで立ち行かなくなる。

求めていなければ手に入る、しかしそれを目的とすると逃げていく。目標を持ち続けてそれに見合う存在になった時に自然と手にできるものなんだと思う。

でもなんだかんだ言っても世の中はうまくいかないからおもしろいのだ。

シャンプーをしてもらいながらそんな事を考えている人間がいるなんて理容師さんは思いもよらないだろう笑 

美容室と違い必要な事以外は極力無言の男性空間理容室では余分な事を考えるものだ…
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マナーと法律と

2019.10.31 Thu

最近車の運転マナーがニュースになる事が多いのだけれど、これはいろんな要因があると思っていて社会情勢の変化などがあるので一概には言えないのだけれど、日本人と言う人そのものの変化が大きいのかなと思っている。

利己主義と言うか自分中心の人が増えたのだろうし、それは生活環境の変化がそうさせたと言わざるを得ないところがある。

昔より他人と関わらずにも生きられるようになった事により他人の事を考えて行動すると言う事ができなくなってきているのだ。

それは現代人すべてに共通すると思うのだけれど、それに加えて多様な価値観や考えが増えてきているし、外国人も増えて文化的なものの多様性も増している。

僕は法律よりもいわゆる一般常識、マナーと言うのが社会のなかで重要だと思っていて、それは決まり事や法律よりも時には重視されるべきだと思っている。

例えば車の運転なんかでも優先的な立場にいるから常に優先でいられるのかと言うと必ずしもそうではないと思う。法律的にはそうかもしれないけれどそこは譲り合いと言うものがあり、時には優先的な立場なものが譲る事により全体がスムーズになる事もある。

法律を守って法定速度で常に走る事が良いのかと言うと時には流れに乗って走る事が求められる場面も多々ある。それもマナーと言えるのかもしれない。
法律や決まり事でなんでも解決できるものではないと思うのだ。

逆に決まり事で解決できるものもある。

例えば先日考えさせられる話を聞いた。

ドイツから帰国したピアニストのA氏を車に乗せ移動していたときの話、交通集中で高速がすこぶる渋滞していたのですが、結果その原因が合流地点であることが判明。
その時にA氏がドイツでは一台一台交互に入れていくように決まっているんだとお話してくださった。みんな守るしそうすることで渋滞しないんだと。

僕はマナーとして例えば2車線が1車線になっていくような道路の場合、主となる路線のほうに並ぶべきで途中で横入りするようなのはマナー違反だと思っていた。
しかしその考えが渋滞を生み出しているんだと言う事に気付かされマナーだけでも円滑にはいかないのだと思わされた。所詮人間がそれぞれ考えることには限界がある。
計算された決まり事が必要な場面もある。

では法律や決まりごとで縛ればよいかと言うとそうはいかないケースもある。

例えばストリートピアノのような自由な場のケース、一人何分だとか決まりごとを作ってしまったらつまらないし自由であるがためによいものなのにそのよさがなくなる。

しかしよく問題となっているのが一人で弾き続ける人がいると言うもの。聞かせたい、上手であるのかもしれないけれどマナーとしてどうなのかとなる。ハッキリ言って迷惑だ。

これこそ自分が良かれと思ってやっているかもしれないけれど自己中な振る舞いでしかない。
こういった人に注意をしたら何が悪いのか、おまえらこそ悪いと思われかねない。

多様な考えや文化のなかでは時間の尺度も違うかもしれないし、座ったものの勝ちだと言う価値観かもしれない。はたまた上手に弾けるものが弾いて何が悪いと言うものかもしれない。

けれど聞いて良いか悪いかは人それぞれであるし、所詮自己満足の世界だ。

ストリートピアノの良いところはコンサートやライヴと違い聞いている人の反応はストレートだ。興味なければ足をとめてもらえない。
その意味では人だかりができたのならある程度弾いてよいと言うのがなんとなくの決まりと言うか流れと言うか、それを容認するのがマナーと言えるのだろう。
そういった周りに認められる弾き続ける才能のある人が結果的に自己中でいられるのかもしれない。

そうでない大勢の凡人の中のひとりであるならば周りの事を考えると言うのがやはり人間社会を円滑に生きる術ではないだろうか。生きるすべと言うかそれが社会全体をよくし本人もよく生きられるのだと思う。
周りが冷たいと感じる人間は己に原因があることを悟らなければならない。マナーを守り相手の気持ちがわかる人間ならば人から大切に思われるからだ。

自分はそれをしていると思っていてもうまくいかないのは独りよがりになっていて方向性が間違っているから。他人の意見を聞かない感じだとそうなる傾向が強い。
自分が社会のなかでどういう人間であるかも知っておく必要がある。それにはいろいろな経験をし、きみはこういうところが良いところで悪いところはこうだと言ってくれる相手も必要かもしれない。
それを受け入れないプライドこそ生きていくうえで最も必要ないものだ。

さて車のように自分が規則やマナーを守っていても酷い割り込みなどをしてくるのがいる。
これは車が多かったり道路が狭いなど環境や構造上の問題、精神的に不安定だったり追い詰められていたり時間がなかったりなど社会的な要因が大きい。

人間関係もしかりで環境的な要因で人に冷たくされたりとする事も多々ある。そこで怒ったり傷付いたり落ち込んだりあるのだけれど、それに流されたり諦めたりふてくされたりしてもよい方向へはいかない。

常に周りの事をみて考え運転するのみ。環境や社会のせいじゃない、自分次第で環境や社会は変化するのだ。

夢と現実との境

2019.02.23 Sat

最近思う事をつらづらと…

日々の生活に追われて夢や希望をどこかに置き忘れている人が多い現代のなかで純粋に芸術を追い求めている姿に出会えるとなんとも清々しくエネルギーをもらえる。

むろん妥協なき芸術の世界はごまかしの効かない厳しいもので、ある意味お気楽なのは現実の社会生活のほうかもしれない。


しかし現代人はどうしてもこうも心の余裕がなくなっているのだろうか、と思う事がある。
お金を持っていることやその身が忙しい事と心の余裕は必ずしもイコールではない。

漠然とした、いや半分はどこか確信のある将来への不安がそうさせるのだろうか。

子どもやパートナー、ペットなどへの虐待などは問題外ではあるけれど、精神的にそこまで病んでいなくとも何か周りに厳しく必要以上のものを求めようとするのは年々厳しさを増す社会情勢がそうさせているのか。

特に親が子どもに必要以上に教育を施そうとするのは大きな過ちのひとつだと最近思う。

同じ親として子どもを少しでも将来社会のなかで良いポジションへと言う気持ちはわからなくもない。

しかし早い段階からやりかたを覚えさせる事は同時に想像力の欠如へと繋がり発展性を阻害する要因となる。
ピアノにおいても同様の事が言えて、いやむしろピアノは表現するものであるからそれが顕著に出る。


教えられる事は優秀にできてもそれ以上の事が出てこない。


将来社会に出てもロボットのようにプログラミングされた事を正確にこなせる仕事しかできないようではロボットには所詮かなわない。ようは使えない人間になるだけだ。

それに子どもの成長段階で得られる精神的な成長を、遊びや人間関係から学ぶことなく大人になると精神に異常をきたすパターンが多いように思う。

殺人や奇異な行動、変態性や暴力、それらに繋がるのは子どもの頃にするべき事をしてこなかった結果も強く反映していると思う。

子どもが最もやらないといけない事は〝遊び〝だ。遊びほど得られるものが多いものはない。その機会を奪ってしまったら、その無限の可能性は育たない。


しかし結果と言うのは往々にして思ったとおりにはならないのであって、世の中に名前を残す人には当てはまらないと感じる。

かの偉大な音楽家のベートーヴェンは幼少期に父親から厳しく育てられ時には殴られながらも音楽の道をやらされた。
しかし彼はそのなかから崇高な芸術の世界へとたどり着いた。彼の才能と精神性の高さがそうさせたのだろう。

しかしそれはどこかで道が違えば殺人鬼になるか自滅するかだったと思うし、その意味では犯罪者と芸術家は紙一重だと思う。


話を戻すと現代社会ではほとんどの親が子どもに芸術家になって欲しいとは思ってはいない。にも関わらず芸術家になるか殺人鬼になるかと言うようなくらいのプレッシャーを子どもに課しているパターンが多い。

もしまっとうに普通に社会でやっていって欲しいのならもっと持続的で確実性のあるやりかたをすべきだ。

ベートーヴェンの甥のカールはベートーヴェンに厳しく指導されたため最後は自殺未遂までいってしまった。
厳しくされ追い込まれた結果誰もが大成するわけではない。そこには才能と言うものが必要となる。
ベートーヴェンにはできてもカールにはできなかった、それは芸術家としての才能の違いが大きい。音楽家として大成するかどうかは幼少期の演奏を少し聴けばわかる。

それなのにベートーヴェンがカールにこだわったのは血の繋がりがあったからだろう。

例え我が子であっても人格の違う人間として尊重すべきであって親の私物では決してない。

親のこだわりを捨ててその子の才能を伸ばす事ができるかどうか、それがいわゆる学校の勉強以外の事であってもそれをできるかどうか、そこには心の余裕と高い人間性が必要となるのは間違いない。

子どもの伸びようとする無限の芽を摘み取ってしまうのは無知な親だ。

親がやる事は自分の頑張っている姿を見せることであって、子どもにいくら言ってもやらないのは親が大した事ないからだ。

所詮スズメの子はスズメであるので自分が通ってきたやりかた、思考を変えない限りは子どもには伝わらないし、口先だけでは響かない…


最近よく夢を見る。

起きてその夢の内容を覚えている事はほとんどないけれど悪い内容は少ないように思う。

楽しい夢も悪い夢もそのときはリアルに現実だと錯覚している。そして目覚めると夢だった事に気づく。

今この現実だと思っているこのリアルな世界も夢ではない保証はどこにあるのだろうかと考える。

夢と現実の違いは目覚めるかそうでないか、だろうか。持続性のある現実は夢ではないとするなら持続性のあるうちは夢ではない。

いつか目覚める事があったらそれは夢であったと気付く。

その時間の経過が長いから夢ではないか?

でももしかしたら寝たきりの状態になっていてずっと夢を見ている状態なのかもれない。その夢のなかで夢を見ているのかもしれない。

いや物に触れる感覚がリアルにあるじゃないかと思うけれど、夢のなかでもリアルと感じてしまうのだからやはり目覚める事なくしてはそれを確認することはできない。

それを考えるとどこまでいっても夢のなかの夢であって、誰もこの現実が夢ではないと確実性を持って断言することができない。

リアルな現実などないとも言える。

と言う事は自分が持っているこだわりや偏った思考も夢のなかのことであって失敗や恐怖も目覚めればなーんだ夢だったんだって安心する。

どうせならこの現実が目覚めたときにいい夢だったと思いたい。ですよね?!


芸術のスポーツ化

2017.05.10 Wed

「676.ルービンシュタイン国際コンクールを垣間見て」‬
http://ameblo.jp/chipmop1021/entry-12271112776.html

以上の記事を読んでの感想です。


そもそも芸術に順位を付ける行為自体ムリのある話であって、コンクールは商業的に利用される、することを目的としたものになっている。

コンクールを全て否定しようとは思わず目的を持って使えばそれが芸術を高めることに繋がる側面もあるのは否定できないけれども、とにかく世の中に名を広めるためのパフォーマンス的なものが優先されがちになるのが近頃のこの世界。

芸術家とエンターテイナーは紙一重であって、クラシックの世界でさえその傾向は確実にきていると思う。

特にクラシックの魅力とは音楽そのものの持つ純粋な芸術性と演奏家の個性とによる内面の表現によるものと思うのですが、中身の感じられない薄っぺらなしかし完璧なる演奏力で納得させるようものが評価されるようになってきているように感じるのは私だけではないと思う。

私はスポーツも大好きなので観戦したり自ら楽しんだりしますが、基本的なところで芸術とは違うと思ってます。

つきつめるとスポーツも芸術となるので根本的なところでは共通するのかもしれないですが、勝ち負けがまず評価の対象となるところが大きく異なる。

いくらよいプレイをしようが勝たなければ意味がなくなるのがスポーツの世界。勝者が全てでありそれまでの過程や手段、内容は問われないのです。

誰よりも速く走れる、ボールをネットに入れる、それで勝ち。わかりやすい世界です。

その意味では特にフィギュアスケートはスポーツのなかでもピアノに近いものがあり、明確に勝ち負けを決めるのが難しいものがあります。

しかしながらスポーツとして商業的に認知されたものとなったいま、どれだけ確実にジャンプを多く決められるかが評価の対象になるのは当然の事であり誰もが納得するわかりやすい基準が求められる世界になりました。

表現力とのバランスで見るとまずはジャンプありきで、それが同等であるような場合は表現力での差がものを言うのだと感じてます。

それがピアノのクラシックの世界でも近いものになっているのではないか。

もっと言うとそのように商業的に成功するモデルにしていきたいのではないかと言う意図を感じられずにはいられない、そうせざるを得ないヨーロッパの伝統を揺るがす切実な事情を感じるのは考え過ぎだろうか?


追記

フィギュアスケートもその昔表現力のほうが技術よりも加点有利であった時代があったと知人よりご意見いただきました。

日本人の演技がそれを変えてきた面もありますが、競争の世界である以上一般的にわかりやすい方向へ流れていった部分は否めないです。

映画 THRIVE-スライヴの希望

2015.09.11 Fri

このブログにしっかりとした文章を書くのもご無沙汰になってしまっていますが、閉ざされたSNSとは違い広く自分の考えを発信できると言うことで使い道を新たにしたいと考えています。

訪問数があまり伸びておらず、見るかたもあまりいないのかもですが、それでも少しずつ世の中によい影響を与えられたらとの思いがあり・・

今日は9.11と言うことで例の米国でのテロなるものがあった日ですが、未だその真相はよくわからない、情報を取れば取るほど”闇”の部分があるような状態です。

現代世界の構造を説明している「THRIVE-スライヴ」と言う映画を見ればそのあたりはよく理解できるのですが、これらの事がほんとうであるならば多くの人は絶望に打ちひしがれるやもしれません。



しかし多くの暴露話とは異なり、このスライヴがよくできていると思うのは解決法まで描いている点です。

現代世界の裏話を聞くときに暗い気持ちになり打ちひしがれる怒りが残ると言う事は多々ありますが、それではなんとも無責任ではないかと思うのです。

現在の世界がおかしい、ならばどうすれば良くなるのか、そこがなければ人々は希望が見出せません。


ではこのスライヴの後半に描かれている世の中を良くする解決法で問題は解決するのかと言えば必ずしも充分とは言えないと思いますが、しかし最も大事な事はまずは人々の意識の変革であり、そのあとに世の中を良くする実際的な解決策は自ずと出てくるのだと思います。

ただ解決策を何か提示しなければ希望が見出せないと言うのはたしかで、この映画はそのあたりも考えられ実によく作り込まれていると感じます。

いろいろな方法で個々の心の変革が起きればそれが一番なのですが、話はそう簡単なものではないのも事実です。なのでそれまでの実際的なつなぎとしての方策を提案する事も世の中を良い方向へ持っていくためにまずは大事なことなのかもしれません。

その中のひとつとして最後のほうに出てくるギャングの抗争がいかにしておさまったのかと言う事例が紹介されていますが、以前にこの映画を見たときはこのシーンにあまり何も感じませんでした。
が、今は何が言いたいのかがよくわかるようになりました。

人間と言うのは対立をして人殺しをするものだ、それは人間の本能であるからしょうがないのだと言う事を否定しているくだりだと思います。

結局世界支配の陰謀と言っても人間自身の問題、欠陥があるからそれが原因ではないの?と言う性悪説に基づいた考えをそうではないと否定しているだと思います。

元々人間は愛情に溢れた存在なんだと映画のなかで繰り返し訴えるフォスターギャンブルさん。

これこそが真実であり、そういう人間を増やしていけば世界は自ずと変わるのだと言うことだと訴えています。
これは近しい人間通しの争いや国の国との紛争にも当てはまり、それを良い方向へ導こうとする力があれば話し合いで解決できるのだと言うことを示唆しています。

人間が同士が武力を振りかざすときは問題が解決できなかったときであり、その時に間に入ったものが更に火に油を注ぐのか、鎮火する方向へ向かわせるのかによって変わってくると言うことだと思います。

映画を改めて見て、最近私の思っていた疑問点を洗い流してくれました。
もちろんそれはひとつの例に過ぎませんが、非暴力の考えが根底にあり人間は本来誰も争いなど望んではいないと思います。

現在の私ではほんとうに微力ではありますが、世の中が少しでもよい方向へ向かうような活動をしていきたいと思っています。
ここ最近ずっと考えてきたことですが、もう一度映画スライヴを見直した事により考えがまとまってきました。

それをエネルギーとして精力的に活動していきたいと思ってます。